藤沢宿とは

 旧東海道藤沢宿は、現在の神奈川県藤沢市に置かれていた旧東海道の宿場です。歴史的には、江戸時代の慶長6年(1601年)に東海道に駅制が敷かれると、旧東海道五十三次の6番目の宿場町として整備されました。藤沢宿は境川沿いの大鋸町(鎌倉郡)と西岸の大久保町・坂戸町(高座郡)によって構成され、遊行寺東側の江戸方見附から現在の小田急江ノ島線を少し西へ越えた辺りの上方見附までを宿域として、のちの藤沢地域の発展の中心地となりました。
 また、藤沢宿は東海道の往来のみならず、江島神社へ至る江ノ島道の起点として大いに栄え、娯楽として当時の庶民に人気であった江ノ島詣での旅客を迎え入れる茶屋や旅籠が軒を並べたといいます。
 この宿場町が設置されていた旧藤沢宿エリア一帯には、現在でも旧東海道を中心とした細長い街割りを継承した建物が並んでおり、宿場町時代と変わらぬ街路の線形や寺社に、往事の姿をしのぶことができます。


  ■旧東海道藤沢宿の位置                 ■歌川広重 旧東海道五十三次「藤沢遊行寺」
    



■現在の藤沢宿エリア about11

時代ごとに変わる藤沢の顔

 藤沢宿エリアは、江戸時代の「宿場町」としての歴史に加えて、宿場町「以前」の中世から宿場町「以後」の近代・現代に至るまで、長い歴史の中でそれぞれのまちの顔を持ち合わせています。
たとえば鎌倉時代にはすでに遊行寺などの寺院が成立し、その周辺は大工集団の集まる拠点として、近代には藤沢の行政を司る官庁街や、商業機能の集積する問屋街としてなど、藤沢エリアの経てきた歴史は多様であり、そこに共通することは、ひとびとの集う商業や文化の中心地域としてにぎわいをもたらしてきたという事実でした。
 そうした歴史から見えてくる藤沢宿の都市像とは、単純に東海道の旅人を受け入れる宿場町としての姿だけではなく、まさに多様な都市の姿であることが読み取れるでしょう。


    ■義経首洗い井戸(中世の資源)            ■紙問屋「桔梗屋」(近代の資源)
    

藤沢の顔として

 しかし、そうした多様な歴史を持つ藤沢宿エリアも、明治20年の国鉄藤沢駅開業や昭和26年の市役所の藤沢駅北口への移転、その後の藤沢駅周辺の区画整理事業や大型開発などにより、近代以降徐々に衰退を見せ始め、現在、藤沢の業務・商業の中心は藤沢駅周辺へと移動し、旧藤沢宿エリアには拠点となる都市機能も少なく、にぎわいが不足する状況にあります。

  ■藤沢町役場                      ■神奈川県農工銀行藤沢支店
    

多様な歴史軸を併せ持つまち

 そうした中で、いま一度藤沢宿の魅力やその持つポテンシャルについて再考してみる必要があるのではないでしょうか。 現在、藤沢宿エリアにはかつての問屋街としての名残を残す蔵や店構えをところどころに見ることができ、時宗総本山として古い歴史を持つ遊行寺をはじめ数多くの社寺が集積するなど、歴史的資源が豊富に存在しています。また、相模湾へと流れ出る境川や桜の名所である伊勢山などの自然環境にも恵まれる旧藤沢宿エリアは、現代に至るまでの多層な歴史を感じ取ることのできるまちとして大きなひろがりを持っています。 そうした忘れられつつある歴史と普段気づかないまちの資源について、一度このまちへ訪れ、身体でまちを体感することでこのまちについて知ってもらう、そんな「藤沢宿ちょいぶら」です。